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2007.06/05(Tue)

バナーの貼り方

バナーの貼り方

バナー

をまず右クリックしましょう
 すると 上の方に 「名前を付けて画像を保存」と言うのが表示されると思います。
それを選択します。

②すると、ウィンドウが開き下の方に ファイル名などが表示されると思います。
そして保存場所を(マイドキュメントなど)指定し、保存したい場所を選んで
右下の「保存」キーを押します。これであなたのPCに保存されました。

③次にアップロードします。ファイルマネージャー(管理人の場合FC2)を開き
アップロードをクリックします。
すると参照って言うのがあると思います。それをクリックすると、
あなたがバナーを保存した ファイルが開くのでアップロードしたい物を選択し、開くをクリックしましょう。
ファイルマネージャーに戻って みるとあなたの選択したバナーが(例えば 9936.gifって感じ)
あると思います。それを右クリックしてプロパティーを選択し 
あなた専用のバナーURLを取得してください。

④それではバナーを貼って見ましょう!ソースの書き方は
<a href="~サイトURLをここに"><img src="バナーのURL"> 管理人のサイトですと
<a href="http://thumpx.blog84.fc2.com/"><img src="アップロード後のURL">
の様な感じになります。


(どっかのサイトの文章を引用しますた(^^;。)

何か分からない事あったらコメントでもメールでもどぞw

じゃあ、早速↑のバナー使ってリンクよろしくぅ♪
↓ランクリもよろしくぅ♪

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バナー作ったんですかw
休みの日とかに早速貼らせてもらぃますhttp://blog84.fc2.com/image/icon/i/F99F.gif" alt="" width="12" height="12">(*´∀`)

てか、ポルノ新曲出すんだ!?∑(´□`#)(遅
高架線 | 2007.06.05(火) 21:49 | URL | コメント編集

●NoTitle

抑圧民の反乱を鎮圧するためにも、勇猛果敢な市民兵軍団を組織する必要があったスパルタは、前6世紀半ばまでにはギリシア屈指の強国へと成長し、周辺のエリス・テゲアなどとペロポネソス同盟を結んだ。この同盟締結は、アテネのデロス同盟結成より早いものであり、早い段階よりスパルタが対外関係を構築していたことを示している。そのスパルタの市民軍は、ペルシア戦争においてその真価を発揮した。紀元前480年、破竹の勢いで侵攻を進める30万のペルシア軍に対し、ギリシア諸都市連合軍の作戦立案を担当したアテネのテミストクレスは、山間のテルモピュライでペルシアの侵攻を食い止める作戦を立てた。この戦場は主にスパルタが担った。しかし地元民に内通者が出てペルシア軍に迂回路を教えたため、背後を突かれて窮地に陥ることとなった。そこでスパルタ王レオニダスは他の諸都市の兵4000を先に逃亡させた後、自ら300人のスパルタ兵を率いてペルシャ軍を迎え撃つと、3日間持ちこたえて全員が玉砕した(テルモピュライの戦い)。この時間稼ぎが、アテネ海軍にペルシア軍を海上で迎撃する態勢を整えさせ、サラミス沖の海戦での勝利を可能にした。その勇敢な戦いぶりが全ギリシア人から称賛を受けた。

ペルシア戦争後は、デロス同盟の盟主であったアテナイとの対立を深め、ペロポネソス戦争へと突入した。籠城戦を選択したアテナイに疫病が蔓延したこともあり、前404年に勝利してギリシアの覇権を獲得した。しかしその勝利によって流入した海外の富が突然の好景気をスパルタにもたらした。質実剛健を旨とするリュクルゴス制度は大打撃を受け、市民の間に貧富の差が生じたため、スパルタ軍は団結に亀裂を生じて弱体化した。紀元前371年、レウクトラの戦いでエパミノンダスに率いられたテーバイ軍に破られ、覇権を失ったとおもうよ^^

SANTANA | 2007.06.05(火) 22:06 | URL | コメント編集

●NoTitle

織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日(1534年6月23日) - 天正10年6月2日(1582年6月21日))は、戦国時代から安土桃山時代の武将・大名。

古渡城主の織田信秀の二男(三男という説もある)として生まれる(正室の子であるため嫡子とされた)。幼児の折に那古屋城主となり、父の死後、同母弟の織田信行との家督争いに勝利し織田家を継ぐ。

その後、周辺の敵対勢力、今川氏や斎藤氏を破り、足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけるが、その義昭と敵対し武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成される。しかし、信長はこれを破り、以後は天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用する(織田政権)。

既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器であった火縄銃の活用などを通して戦国時代を終結へと導いていったが、後の秀吉の情報操作や自らを魔王(第六天魔王)と呼んだこともあり、恐れられてもいた。しかし、家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)により自害した。
支配者 | 2007.06.05(火) 23:58 | URL | コメント編集

●NoTitle

めんどくせぇ(酷)
琴夜 | 2007.06.07(木) 00:57 | URL | コメント編集

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